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monologue:猫に捧ぐインタールード

◇登場人物
 カニス/Canis  私:君:
 レジスタンス所属の元一般兵。この国はもう終わると悟って軍を抜けた。

 猫/
 カニスがつれている猫。白い。自由気まま。
 

 もし明日、電車が止まったら。
 もし明日、仕事が無くなったら。
 もし明日、世界が壊れたら。

 ──何のために、死ぬことになるのだろうか。

 そんなことを考えさせてくれる訳もなく、既に目の前の日常は崩れていっているのだとカニスが気が付いたのはこの都の全ての門が封鎖されてからのことだった。
 ある朝のラジオだったか、そんな突拍子のない話が耳に入ったのは。ようやく取れた有給の曇天日和、私は普段の起床時間より三時間ほどずれて動き出し、ようやく朝食のパンをトースターに放り込んだところだった。何を聞かされたのか、トースターからパンが飛び出してくるまで把握することが出来なかった。事の深刻さを自覚するにしても随分とかかったものである。
 いつからか雑音交じりの放送になっていたラジオからは、淡々とこの都が閉ざされたという情報だけが流れていく。それでこそ勝手に流れていく側溝の水のように。
 とはいえ、ごく一般的な軍人であったカニスが真っ先に心配したことといえば。
「……あ、給料日」
 飼い猫にこいつどうしようもねぇなと欠伸されるほど、なんとも身も蓋もないことだった。
 その日一日どころか、有給をとったその三日間まるごと外出もままならないまま終わった。なにせ都市そのものが混乱極まりない状態になっていたのだ、気軽に外に出てる状況ではない。なんて休日だとカニスはため息をついた。てっきり軍から招集がかかるものだと身構えてもいたものの、回線がパンクしてるのか忘れ去られているのか連絡の一つもなく。いざ口座を確認してみれば給料の振り込みがされた形跡もなく。なにをすべきかも分からないままカニスは飼い猫と一緒にただ外を見ていた。自宅の外はさながらサバイバルゲームのようにパニックが続いているというのに、暴動の黒煙をどこか遠くに見ている自分は世界から一人だけ置いてけぼりにされたようだった。
 情報がまったく入ってこない状況が続き、カニスは人目を掻い潜ってバーに赴いてみたがその向かう途中で見慣れないモノが目に入って面を食らった。裏路地に隠されるように死んでいた軍服の死体がどうにも自然死とは思えない形相だったのだ。原因は容易に想像がつく、なにせ普段から命を張っている仕事なのだから。さすがにすぐ目を離せるほどカニスは悠長ではなかった、何であれ今のこの街は理不尽と同居しているようなものか。──軍の人間であることがバレれば殺される。自身の常識が生きていてくれて助かったと、思わない日はない。
 仕入れられた良い話といったら、店のマスターがいつも通りなんてことない柔和な顔で店を続けていてくれたことぐらいか。飼い猫が散歩コースで世話になっている彼が健在なら、とりあえずカニスの唯一の隣人の食い扶持は確保されるだろう。自分が明日生きていられる保証がないのだから、仕方がない。かといってわざわざ死にたいわけでもなく、一向にやってこない軍からの連絡はやっぱり自分忘れ去られてるのじゃあないかと唸るほどだった。ただそれと同時に、今回線を手に取れば自分は数日たたずに死ぬのではないかという確かな予感もひしひしと感じていた。
「今日は雨か……」
 そろそろ本気で忘れ去らすぎではと思い始めた矢先、降ってきたのはバケツをひっくり返したような土砂降りだった。流石にカニスも人間なので雨の中頑張って職場に向かう気力もなく、そもそも電車が止まってるうえそこかしこにバリケードがある道路を車で走るのも状況が悪すぎるため外出を諦めた。こいついつ出勤するんだろう、と足もとに座っていた飼い猫がナアと呆れたように鳴く。仕方がないじゃないか雨だもの、温い毛玉猫を抱きかかえ玄関扉を見る。
 聞こえていた足音が、扉の前で止まった。
 ベルを鳴らす様子もなくカニスは「誰だ」と問いかける、だが扉の向こうのソレは言葉の受け取り合いもせず。
「こちらには来るな」
 確かにそれだけを告げて、あとはただ遠のいていく足音だけが聞こえていた。
 豪雨の音を抑えるようにどぐりどぐりとせり上がってくる異音に耳を塞ごうとした、だがそれは自分の心臓の音だと気が付くのにまたしても時間のかかるカニスだった。

 *

 "勇敢なる者求む。対ピスティス反政府人員募集"
 そんなチラシを持ち帰ったのはいつのことだったろうか。あれからカニスは軍に戻ることを諦め、いつの間にか街の若者たちがくみ上げたレジスタンス──解放軍に手を貸すようになっていた。もちろん軍人だったことは伏せて、飼い猫と一緒に。日に日に日常が崩れていく、なんてこともなくざっくばらんと終わった日々に追い付くためにはひとまず安全圏と思える場所を確保するしかなかったのだ。物理的に生きていくためにではなく、不安で発狂しないために。
 街での抗争は日に日に苛烈していき、いつ死傷者が出てもおかしくない状況であると経験の勘が告げていた。だが誰も彼もが止まる方法を知らない以上、加速していく闘いの日々はもう人の手によって止められるものではなくなっていたのかもしれない。いやむしろ、カニスとしてはいつ死んだとしてもよかったのかもしれなかったが。
「マスター、私がそのうち死んだとしてその時はウチの飼い猫のことをたまにでいいから気にかけてくれないか」
 依然として変わらず営業の続く店のカウンターでぼやく。
 アルコールの入った頭ではマスターがどう返したかも覚えていなかったが、カニスのこれから先の不安はそれだけだった。飼い猫がいつまで自由を謳歌できるか、たったそれだけが生きる理由になっていた。もう後戻りはできないところまで世界も日常も進んでいる。軍ではもう脱走兵扱いだろう、見つかってそうだと気が付かれれば即座に射殺されるに違いない。いつ誰が死人第一号になるかのせめぎ合いの中で、せめて出来るならば若い人たちを生かしたいと願うのも、せめて出来るならば退屈だった日々を夢にみたいと思うのも、今現在なにもかもが過ぎたものだと思えるぐらいには憔悴が続く。
 解放軍も、政府軍も。どちらも今空気はかなりよろしくない。化学兵器導入の噂もある、奇妙な魔眼の噂もある。いずれこのピスティスの都からはひとが居なくなるのではないか、どんな噂話も明るいものはひとつもなく暗いものだけが蔓延る今。せめて自分の守りたいものだけは託そうと思うのは、間違いではないはずだと。
「おまえは何も変わらないな」
 一つの席を跨いで座っていた男がそう言った。聞き覚えのある声に視線を向ければ見覚えのある男だった、あぁ、見つかってしまったか。だがどうにも様子がおかしく彼はそのまま言葉を続ける──さながらカニスが見えていないように。
「そのまま、好きに生きてくれ。じきに何もかもが終わる」
 違う、見えないふりをしてくれているのだ。
「猫は元気か」
 返事をすべきかカニスは少しだけ悩んだが、彼ならば……軍に属していたころの隊長ならば、今、見逃してくれているならこれが最後の機会だと腹をくくる。
「はい、相も変わらずとても」
 それならよかったと、彼は席を立った。去り際に何か缶のようなものを落としていくのが見え拾い上げると、それは未開封の缶詰だった。それも猫用の。
 ちょうど外の巡回をしていたらしい飼い猫が戻ってくる、さすがに分かっているようで猫は目を輝かせて缶詰を見上げてはナアナア寄越せと訴える。マスターに頼んで小皿を貸してもらい缶を開けた、猫用らしい強い匂いが立ち込めた。きっと手に入れることができるのも、この先そうそうないのだろうとカニスは目を伏せる。
「お前、本当に楽しげだなぁ」
 いつ死んだってかまわないが、とりあえずこいつが生きている間は死なないようにしなければと飼い主は小さく決意する。
 
 もし明日、電車が止まって
 もし明日、仕事が無くなって。
 もし明日、世界が壊れたら。

 ──何のために、きみは生きる?

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